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新・のんき大将のごたく from 川口義之


2008年04月11日(金)僕の好きなおじさん

数日前に知人が入院したとの連絡を受けていたのだが、なんだか予定が合わず、今日の午後にやっと顔を出せることになった。

日曜日は車で出かけていたので一度家に戻ってから向かおうと思ったら、そうこうしているうちに面会の出来る時間に間に合わなくなった。
翌日はライブ。
その翌日は夕方くらいまでの用事のつもりが夜まで抜けられない状況になり、
昨日は急にリハーサル決定の連絡が入り、病院に向かうつもりが方向転換、リハーサルスタジオに向かった。
そして今日。このところの疲れから午後まで動けず、さあ、病院に向かう前にメールのチェックをしたら急逝の知らせ。

ある程度予感はしていた。
酒が原因で何度も入退院を繰り返したのちのことであった。
今日は出かけるのは止めにした。夜の用事も止め、部屋で一人で飲む。ただ、ちびちびと飲み続けた。

もちろん危篤と聞いていたのだから予測できたこと。でもなんだか病院へ見舞いに行くタイミングを自分から遅らせていたような気がする。
それは無事退院して戻ってくるんじゃないかという気持ちと、元気じゃないゆきちゃんを見たくない気持ちがあったのだろうか。

ところでぼくも、たぶんまわりのみんなもそうだったと思うのだが、本名も年齢も今回始めて知ったんじゃなかろうか。
西荻、美華のゆきちゃん。
名物マスター。風貌も変わっていた。
ライブにも時々来てくれたのだがそのときはウエスタンみたいな帽子を被っていて、ステージから離れたところからも彼が来ていることがわかったものだ。

たぶん梅津さんとHOBOサックスカルテットをしている頃に通い始めたのかな。
ぼくの体重が増え出すのとほぼ同じ時期のことなので、このお店にも原因、きっかけがあるんじゃないかと思っている。
もう10年近くまえのはなしだ。いやもっと前か。
僕がピットインでバイトをしている頃にはもう来てたな。
その頃は風情のある銭湯の向かいの一階にあり、その後同じ場所の二階に移転。

建前は町の中華料理やさんなのだが、どうも会員制の飲みやの体があり、一見さんの居心地の悪いことったらない。
間違えて入って来たお客さんが、じゃラーメンとビール、みたいな注文をすると、露骨に面倒くさそうな雰囲気に包まれた(ような気がする)。

基本的にはお任せ料理のかたちで、数人でお店に入ったならば気がつくと大皿が幾つか用意される。
興が乗ると食べきれない量のおいしいものが並び、常連さんも次々に現れると、そこはあたかもお祭りのようだった。

常連さんはビールを自分でサーバーから注いでいた。
もちろんぼくもここでビールの注ぎ方を覚えたようなものだ。
おいしい日本酒なんかも、マスターの知り合いから集まってくるらしく、冷蔵庫の中にも外にも溢れていた。

マスター自身も一緒に飲むもんだから深い時間帯には会計がよくわからないことになってたりする。
30分で帰っても、6時間長居しても会計は同じ、なんてことも多かった。

たぶんミュージシャンにはやさしかったんだろう。
他のお客さんにけっこうな額を請求しているあとで、僕らが帰るときは普通に払える額を言ってくれてたから。

ぼくが海外から戻った時や国内のツアーから戻ったとき、美華に直行して土産を開けて一緒に食べながら酒を飲むのも楽しかった。
そんな手みやげを持ってくる常連さんも多く、普段食べたことのないようないろんなものが、中華とは全く関係なく集まる場所。

ゆきちゃんが飲み過ぎて寝ちゃってたりすると、お客さんが洗い物をしたり、なにか作ってたりした。ぼくも厨房の中の食材を探したり。

また、ゆきちゃんの交友関係の幅広さというか、常連さんにもおもしろいキャラクターが多く、ここでしか会うことがないような品のいい紳士やおばさまもいっぱいいた。(おいしいことと、普通に飲み食いすると結構高かった証拠でもあるな)。
おとなの社交場といったらよいのだろうか。いろんな業界のいろんな興味深いはなしを聞かせてもらったものだ。

そこの常連さんに連れられて釣りに行ったことがある。
多田葉子さんと一緒に、シマアジとサバを土産に美華に戻り、その場でさばいてもらう。
普通にさしみにするのかなと思ったら豪快な姿揚げの甘酢がけが出て来た。
新鮮なものにちょっと手間加けて食べるのがいいのよ、ホント、うまくて笑っちゃうね!なんて言ってた。
ホント、笑っちゃうね!が口癖。

ぼくはゆきちゃんといろんなおいしいものの話をするのが好きだった。
ゆきちゃんの昔話を聞くのも好きだったな。
破天荒な話が多く、とても本当のこととは思えないような武勇伝も多かった。
自分はこんな風には生きられないなあなんて思いながらすごく憧れていた。

今思えば、小さな子供が家に帰って、今日はこんなことをした、何が楽しかった、なんて話をするような気持ちでゆきちゃんに話しかけていたような気がする。
カウンターで二人で話し込むことも多かったことを今になって思い出した。まだお客さんのいない夕方、早い時間が多かったな。

ここ数年は僕の住まいが阿佐ヶ谷寄りに移ったこともあり、若干疎遠になっていた。
それでもたまに顔を出すといつもの笑顔で迎えてくれた。

お、久しぶり。何飲む? 最近何してんの?忙しい?斎藤君と会ってる?彼元気?
なんて矢継ぎ早の質問ととも2、3種類のつまみが置かれる。
ぼくは自分でサーバーからビールを注ぐ。
ゆきちゃんも小振りなグラスに自らビールを注ぐ。
じゃ、ひさしぶり。
風通しの良いテラス風の店内窓側。おっきな板張りのテーブルでふたりグラスを合わせる。
梅津さん、多田さんなんかとともに毎週、毎晩のように通った蜜月時代の気分がすぐに戻って来たものだ。

最後に美華に行ったのは、HONZIのお葬式のあとだったか。

よく、美華では酔った勢いで演奏をしたものだった。
ゆきちゃんが、なんかやってよ、って酔いに任せて言うもんだから。

ミュージシャンがいっぱい集まってたね。
斉藤くんやHONZI、もちろん梅津さんや多田さん。
こまっちゃクレズマー、パスカルズの面々なんかもいたかな。
知久君や、るりちゃん、メリィさん、野本っちゃん。

昨日は、たまたまリハーサルが美華の近くだったので、前を通りがかってみたら
中華どんぶりや見覚えのあるガラスの大皿がご自由にお持ち下さいって店先に置かれていた。

またひとつ自分の大切な場所、心のなかの大切なものに会えなくなってしまった。
ぼくらの遊び場を長い間守ってくれていたゆきちゃん、ありがとう。
合掌。

[link:96] 2008年04月11日(金) 06:04


2007年10月12日(金)さよなら桃井マンション

10月14日、午後1時半。長年住み慣れたマンションの鍵を返す日が来る。建て直しにつき半年後に立ち退きを、との張り紙が出されたのが半年ほど前。9月30日が期限だった。(特別にちょっと延ばしてもらったが)寝耳に水というか、あり得ない!って状況(だって合間に栗コーダーの録音もツアーも、渋さの欧州ツアーもあるし…)から始まり、今は別のマンションに大小200個ほどの段ボールが積まれている状態に落ち着いた(落ち着いた?)。もともと現ロンサム・ストリングスの桜井さんと二人で、ぼくが学生の頃に住み始めたのだから95年の秋か冬あたりから借り続けていることになろうか。約22年。この立ち退きの一件でわかったのはマンションの出来上がったのが昭和39年の5月13日。いや6月13日だったかな。ちょうど私が生まれてから半年後に完成。私がもうすぐ44歳になるってことは丁度マンションの生涯の残り半分を共にして来たことになる。引っ越した当初から流石、桜井さんが見つけて来た物件だけあってすでに実に風情のある古びたマンションであった。公団住宅と似た作りだったと聞く。環境もなかなか変っていた。自分の住む3階からは隣の保育園の様子が伝わってきた。深夜に帰宅し、水浴びをする子供達のワーって声に起こされることも度々。マンションの地下にはバンドの練習スタジオもあり、寝ているとバスドラムの音がドン、ドン、ドン、ドンと規則的に響いて来た。早朝5時頃にそこのスタッフが、マンションの中庭でキャッチボールをしている音で起こされたこともある。そんな環境だけにバンドマンが多く住んでいたようで、夜遅くにギターとうたが聞こえて来たり。もちろん自分自身も大きな音でレコードを聞いたり、楽器を弾いたり吹いたり。てっきり防音が効いているように思っていたのだが実は結構漏れていたようだ。帰宅しマンションの階段を昇りかけるとアンプから鳴るギターの音が聞こえて来たり。桜井さんが出て行ったあとはやはりサークルの後輩と一緒に住んだのだが彼はよく酔ってトランペットを吹いていた。マンションの階段を昇りかけるとプヒーって音が聞こえて来たりした。彼、山ちゃんこと山崎は現在ビクターの営業課長か何かというもはや業界のベテランさん。当時はイエロー太陽’sというバンドでキーボードをしていた。あの’たま’を輩出したバンドのオーディション番組のイカ天に出るってんで、どんな服を着ていきましょうかって、前の日に部屋で衣装を選んだ記憶がある。まさかチャンピオンになるとは思わなかったが。先日そこのギターだったコンちゃんが結婚したのだが、そのパーティーで再結成ライブをしていて、なかなか当時よりも演奏が達者だったりしておもしろかったな。さて、仲間からは桃マンの愛称で親しまれていたこの場所には、そんな後輩達が夜な夜な集まっては宴会をしていた。そこに近所に引っ越していた桜井さんも自然に加わっていたり、ときには青山陽一くんとかまわりのミュージシャン仲間も遊びに来てレコード聞いたり、ギターを弾いたり。後輩達と酔ったいきおいでそのまま下のスタジオに楽器をしょって行ってセッションみたいなこともあった。前述のコンちゃんこと今野のパーティーのあと、5、6人を引き連れて懐かしの桃井マンションお別れパーティーを開催した。引っ越し前に宴会を開くのは無謀ではあったが是非そうしたい、それは私だけではなく、そこに遊びに来ていた多くの仲間の共通した思いだった。さて、私は莫大な荷物を片付けるための交渉として、同じ階の、すでに引き払われていた隣の部屋を借りていた。つまり同じマンションの部屋の鍵を2世帯分持っていたってこと。実は隣の部屋が空く前に同じ階のもう少し離れた部屋を荷物の移動場所にしていたので鍵は3つだった。306号室,305号室,302号室。すでに隣の305号室にも段ボールを80個ほど移動していたが元々住んでいた部屋よりも片付いていたので、そちらを第一会場とした。段ボールが積まれた部屋は一見引っ越し直後のようにも見えた。自分の住み慣れた部屋と丁度対称の形をしていたその部屋は妙に落ち着いた。朝4時過ぎまで懐かしい話に花を咲かせた後、三々五々家路に着く。それは自分も同じでここ5、6年は荷物部屋として機能していたマンションを後にして一時別棟に帰宅。そこからの数日間の引っ越し作業は寝る間もなく進む。合間に2本渋さ知らズのライブを挟みながら、引っ越し業者から派遣された2名のプロとともに梱包、そして翌日は3名の腕利き運び屋たちが一気に移動。荷物を移された先の3LDKのうちの2部屋とフローリングは段ボールの海と化した。そして桃井マンション306号室は、薄汚れているものの、引っ越してきたときと同じかたちに戻っていった。数日後か数ヶ月後、そこは打ち壊され、一旦更地になり次の建物が出来上がっていくはずだ。さてと同じ年齢の私は次にどう進んでいったらよいものか。

[link:95] 2007年10月12日(金) 11:46


2007年03月08日(木)栗コーダー5thアルバム録音開始

今週のあたまから2週間に渡って6月にリリース予定のニューアルバムの録音です。先月からデモテープ制作を始め、4人の楽曲もほぼ出揃ってきました。昨日は自分の担当日だったのですが、自分のラフスケッチに基づいて、残りの3人のポップス職人が控えめながらも意見を猛烈に出し合いながらアレンジが仕上がっていく様は実に幸せであります。自宅録音で一人で作ってたらこうはならないですからね(ちなみにデモは全パートひとりで録音してみました)。一人では考えつかない音の広がりやグルーブ(音の絡み合いやノリ、息の合い方とでもいいますか)。バンド冥利に尽きます。もちろん今日も録音は続くのですが、今週の4番手、担当栗原がどのような楽曲をどのような進め方で録音していくのか。これまた楽しみです。いま自分のすべきことは録音開始時間までの体調管理。録音の前の気分はいつも本番一発勝負のオリンピック選手か、はたまた試合前のボクサーか。自分に任された演奏にベストの能力を発揮できるか(うまい演奏をするという意味ではなく)、また楽曲全体のアレンジの方向性や重ねていく音の順番(これがグルーブや全体の雰囲気に実は影響する)、テイクの善し悪しなどに常に気を配っていく集中力+持久力がキープできるか。録音日数が重なっていくほどに、ここが重要になっていきます。まあ、判断力に信頼の置ける残りの3人がいますから、どんな瞬間も自分が完全に把握している必要はないので多少楽なのですが。さて、ただいまラフに7曲が焼き上がりました。今週中におなか6分目くらいまで出来上がるかな。

[link:94] 2007年03月08日(木) 09:31


2007年01月18日(木)エスケリータ68からスタート

昨年4月に栗コーダーで初ライブを行ってから、
加藤千晶さん、あがた森魚さんとぼくでもう一度。
そして新年を迎えて複数回のライブを行うことになりました、
わたくしの故郷浜松であります。
栗公園でも書いたように、すでに浜松こども館のチケットは
完売(当日参加のお子さんの数によって追加の当日券の数を
決定する模様)、心木地もほどよいリスニング環境確保との
兼ね合いで、いつ前売りを打ち切るか検討中。
本番一週間前の自主公演の主催側の立場としては安心、
ありがたいことであります。ぜひ行ってみようと
改めて思い立った方は、一度会場に連絡を入れてみて下さいな。

一方のエスケリータ68のスペシャルイベントですが、
まだ若干定員まで余裕があるとのことです。
加藤さんの曲を関島、川口でサポート、この編成も
実は初めてです。さらに栗原さんを加えた4人でも
たっぷり聞かせます。
川口を中心としたセットでも栗コーダーカルテットトリオで
栗コーダーナンバーを意外な切り口で調理。
加藤さんにも参加いただきつつ、栗コーダーをよく知っている
人ほどおもしろがれそうな仕上がりです。
まず、一番知っているはずの自分がかなりおもしろいです
から、信頼できますね(ぼくに客観性があればですか)。
さらに、この編成ならではの普段は聞かれない名曲も
沢山挑戦してみました。

こちらは普段にない編成だけに、この日に向けての
リハーサルが必要です。まずは、加藤さん、川口それぞれに
自分の担当コーナーの内容を事前に決めつつ資料、譜面整理、
そして昨日長めのリハーサルを敢行。
この編成に向いた曲をさまざま試しつつ最終的な選曲と流れを、リハ後に食事をとりつつ加藤さんとぼくで打ち合わせ。
十分な曲数が揃いました。あとは自主練習。主に加藤さんと
川口の本番当日までの熟成具合が成功の秘訣となりましょう。
音楽面以外のもろもろの手配はほとんど終了したので、
いよいよ音楽に集中できそうです。
わたしとしては新機軸が目白押しなので、
今後の数年間を計る指標とすべくがんばりたいところです。

昨年後半はスタッフ作業の密度が濃く、なかなか音楽
自体に集中しにくい状況でしたが、クリスマスの終わりとともに
通常の生活に戻りつつあります。
とくにこの一週間は数年ぶりに音楽に集中できる模様ですので、
(つまり遊びライブ以外の正式な仕事がなかったりしまして)
いつも以上に、音楽家川口の気持ちで本番を迎えることが
出来ましょう。
近郊の方はもちろん、ぜひ近県の方々もおいで下さい。
とくにエスケリータ68、心木地は演奏後もゆっくり
くつろいでいくことになると思いますので、兼ねてからの
質問などありましたら、伺う余裕もありましょう。
ほろ酔い加減でお答えします。


[link:93] 2007年01月18日(木) 13:46


2006年11月26日(日)追悼…最高のブルースマン

ROBERT Jr. LOCKWOODが91歳で亡くなったらしい。それは自然なことながらショックでもある。初めて彼を見たのは僕が東京に出て来てからすぐのことだったと思う。年を取ったミュージシャンが味わいだけではなく本来のポテンシャルも十分に保ちつつ素晴らしい演奏をする。それに感動しました。さらに言うならば自分が年を取るごとに、生涯の目標として立ちふさがる音楽の巨人なのです。どうやったらあんな風に年をとっていけるのか…。彼の演奏を次に見たとき、リズム感の衰えを感じました。前回、全てが素晴らしかった演奏が、そのとき往年の〜という言葉を付け加えざるを得なくなったこと。それがショックでした。それから10数年が過ぎ去り、ところはニューオリンズ。有名なボーリング場兼ライブハウスのロックンボウルにて、マニアックなレーベル主催のイベントが行われました。夢のような顔ぶれでいわゆるオールディーズ(ポップカントリーとか)、ブルース、R&B、ジャズの巨人たちが入れ替わり立ち替わり出演する。それが目当てでニューオリンズに詣でたといってもいいくらいの内容です。昼間のニューオリンズ・ジャズ&ヘリティッジ・フェスティバルから直行したため、疲れ果てていて、到着直後には当日の出演者を把握していなかったところに、アコースティックギターの渋いブルースが聞こえてきました。あれ、これって聞き覚えがあるな?なんだろうと思って遠くからステージを見るとなんとロックウッド爺が。素晴らしい弾き語りでした。ああ、こんな風に60年、70年に渡って演奏し続けるなんて奇跡だなあ。そう思ったものです。これからもチャック・ベリー、ゲイトマウス・ブラウンと並ぶ、音楽を続ける目標としていこうと思います。合掌。

[link:92] 2006年11月26日(日) 02:33


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